「うざいイヌは作者であるtobyさんの自画像であり、分身だろ」という声が聞こえてきそうですし、それは確かにそうなのですが、それが作中に登場する意味とはなんでしょうか?
恐らく「tobyさんの遊び心」、「自分はこのゲームを作った作者であると当時に、自分もまたこの世界に生きる登場人物の一人である」という意味が大きいのだろうとは思います。
そして、「うさいイヌ」というキャラクターが作者の分身としてゲームの中に出てくることにはもう一つ意味というか効果があると思いました。
それは「プレイヤーから(うざいイヌ以外の)作中のキャラクターと作者が同一視されることを防ぐ」という効果です。
フィクション作品ではキャラクターと作者が同一視されることもあります。
女性向け漫画の女性キャラが複数人の男性キャラ達から愛される描写があれば「男性から愛されたいという作者の欲望が見えて吐き気がする」などと読者から思われたり(タイトルは伏せますが、実際にそのようなレビューがされている漫画をアマゾンで見ました)、世界を救う存在になれなかったことを嘆く王子がアニメに登場したら「監督は『世界を救う王子様的存在になりたかったけどなれなかった』ことで悩んでいるのか?」などと視聴者に思われていたりします。
UNDERATALEもdeltaruneも非常にメッセージ性の強い作品で、tobyさんが作品にこめたメッセージは、作中だと主にフラウィ、アズリエル、サンズがしゃべることが多いと思います。中にはきわめてメタ的な発言もありますが、私たちがそれらの言葉を「tobyさんの言葉」ではなく「そのキャラクターたちのセリフ」として素直に受け止めることができる理由の一つが「この世界の作者=うざいイヌ」という風に描かれているからというのも、あるのではないかと思います。(もちろん、大前提としてキャラクター一人一人が非常によく作りこまれているからというのが一番の理由ですけどね)
神がかり的なキャラクターの作りこみに加えて、作者の分身がマスコット的に作中に登場することによって、「キャラクターと作者の同一視を防いでいるのでは?」という仮説でした!